2011年07月22日
禊ぎの続き
禊ぎというと難しい話の様に聞こえるかもしれないけれど、
生きている人間は、良くも悪しくも罪を犯している。
その罪、汚れを洗い流す事を儀式化したもので、ほぼ世界中に似た行動があるようだ。
禊ぎの語源は、身(み)削ぎ(そぎ)で、我が身を削って罪を償う。という事から来ている。
元々仏教には無くて、古い民間信仰や神道の考えかたにあるものらしい。
昔は本当に身を削いでいたのが、今は真冬に水をかぶる行を行う様に進化したという。
確かに自分の罪の分だけ身を削っていたら、命がいくつあっても足りないだろう。
しかし、現代社会は神代の時代からすると退化している気がする。
目には目、歯には歯の様な風潮があり、厳罰化が叫ばれている。
確かに凄惨な事件も多くなってきた様だ。
石原都知事が震災のときに「罰が下った」と言ったのは、震災に遇った人達を指したのではなく、
この人間が劣化した世のすべてのの人間について言ったのだろう。
マスコミに足をすくわれたのだが、自分の身の処し方を常に反省し、
ニュートラルにしようというのが禊ぎ、その信条がなくなった事が人間の劣化。
生きている人間は、良くも悪しくも罪を犯している。
その罪、汚れを洗い流す事を儀式化したもので、ほぼ世界中に似た行動があるようだ。
禊ぎの語源は、身(み)削ぎ(そぎ)で、我が身を削って罪を償う。という事から来ている。
元々仏教には無くて、古い民間信仰や神道の考えかたにあるものらしい。
昔は本当に身を削いでいたのが、今は真冬に水をかぶる行を行う様に進化したという。
確かに自分の罪の分だけ身を削っていたら、命がいくつあっても足りないだろう。
しかし、現代社会は神代の時代からすると退化している気がする。
目には目、歯には歯の様な風潮があり、厳罰化が叫ばれている。
確かに凄惨な事件も多くなってきた様だ。
石原都知事が震災のときに「罰が下った」と言ったのは、震災に遇った人達を指したのではなく、
この人間が劣化した世のすべてのの人間について言ったのだろう。
マスコミに足をすくわれたのだが、自分の身の処し方を常に反省し、
ニュートラルにしようというのが禊ぎ、その信条がなくなった事が人間の劣化。
Posted by 昔のシステムエンジニア at 10:23│Comments(0)
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