2009年08月22日
安倍七観音(徳願寺)
安倍七観音の最後は、徳願寺である。
安倍川の西岸、向敷地の山腹にあり、富士山を正面に、眼下には静岡市を眺める景色の良い所で、
桜や山茶花の名所でもある。
昔は大窪寺と称し、真言宗の道場であった。
本尊である千手観音は、行基伝説の安部七観音のうちの一体である。
古代には千寿院という密教の寺院で、里人が仏平と呼ぶ、山頂に近い扇松のあたりにあったという。
開基は今川6代義忠の正妻北川殿であり、菩提処である。法名徳願寺殿茲雲妙夢大姉。
北川殿は伊勢新九郎(北条早雲)の妹で、慶長19年(1614)京都方黄寺の鐘銘事件の時、
豊臣の忠臣、片桐且元が大阪から下った際、且元は家康に遠慮し て、
この寺で家康の命を待ったとの説があるが、駿府城を見下ろす山上の徳願寺ではなく、
丸子の誓願寺に泊まったとも言われている。
寺には今川氏などの古文 書を多く所蔵している。
このお寺から眺める安倍川と静岡市はサイコー!
一度お参りをされると良いですよ(写真)

安倍川の西岸、向敷地の山腹にあり、富士山を正面に、眼下には静岡市を眺める景色の良い所で、
桜や山茶花の名所でもある。
昔は大窪寺と称し、真言宗の道場であった。
本尊である千手観音は、行基伝説の安部七観音のうちの一体である。
古代には千寿院という密教の寺院で、里人が仏平と呼ぶ、山頂に近い扇松のあたりにあったという。
開基は今川6代義忠の正妻北川殿であり、菩提処である。法名徳願寺殿茲雲妙夢大姉。
北川殿は伊勢新九郎(北条早雲)の妹で、慶長19年(1614)京都方黄寺の鐘銘事件の時、
豊臣の忠臣、片桐且元が大阪から下った際、且元は家康に遠慮し て、
この寺で家康の命を待ったとの説があるが、駿府城を見下ろす山上の徳願寺ではなく、
丸子の誓願寺に泊まったとも言われている。
寺には今川氏などの古文 書を多く所蔵している。
このお寺から眺める安倍川と静岡市はサイコー!
一度お参りをされると良いですよ(写真)

2009年08月21日
安倍七観音(増善寺)
この増善寺については、安倍七観音の当時の資料は手に入らなくて、
その後、守護大名今川氏親の菩提寺として有名。
七代氏親は、今川家の歴代当主らが臨済宗系であるなか、
例外的に曽洞宗に帰依していた。
これは幼時に家督争いに巻き込まれた時の周りの縁者の影響と言われる。
夫人の寿桂尼(氏親没後に出家)は、公家の娘で、当時争乱で疲弊した京都を逃れ、
駿府に下向する公家らが多く駿府は小京都をうたわれていた。
ここには、氏親の木像が残されている。今川文書は静岡市の文化財である。
静けさの中のたつ観音堂(写真)

その後、守護大名今川氏親の菩提寺として有名。
七代氏親は、今川家の歴代当主らが臨済宗系であるなか、
例外的に曽洞宗に帰依していた。
これは幼時に家督争いに巻き込まれた時の周りの縁者の影響と言われる。
夫人の寿桂尼(氏親没後に出家)は、公家の娘で、当時争乱で疲弊した京都を逃れ、
駿府に下向する公家らが多く駿府は小京都をうたわれていた。
ここには、氏親の木像が残されている。今川文書は静岡市の文化財である。
静けさの中のたつ観音堂(写真)

2009年08月20日
安部七観音(平澤寺)
静岡県立美術館の近くにあり、平澤観音と呼ばれる平澤寺は、
和銅年間に法相宗の高層、行基上人が諸行行脚(710~713)の途中、この地に立ち寄り、
地蔵菩薩を彫刻して草堂を建て安置ちたことに始まるという。
七観音の言い伝えは、ここでは、養老二年(718)元正天皇の十八歳になる
皇子(後の聖武天皇)の病状が悪化しため、諸国の寺社で皇子の病気平癒祈願が行われ、
行基上人は再度駿河国を訪 れた。
上人は高さ五十メートル、直径二十四メートルの楠の木を伐り、七体の観音菩薩像と刻み、
二十一日間皇子の病気回復を祈願したところ、
不思議なことに 皇子の病気は快方に向かい治ったといわれる。
行基上人は七体の観音菩薩像のうち一体を当寺に、続いて順次、
駿河国安倍郡の六箇所の寺に一体づつ安置した。
この七体の観音菩薩像が安置されているところが「安倍七観音霊場」といわれている。
とされている。ここもあまり人が訪れるこのがなく蝉の声が賑やかなお寺さんです。
和銅年間に法相宗の高層、行基上人が諸行行脚(710~713)の途中、この地に立ち寄り、
地蔵菩薩を彫刻して草堂を建て安置ちたことに始まるという。
七観音の言い伝えは、ここでは、養老二年(718)元正天皇の十八歳になる
皇子(後の聖武天皇)の病状が悪化しため、諸国の寺社で皇子の病気平癒祈願が行われ、
行基上人は再度駿河国を訪 れた。
上人は高さ五十メートル、直径二十四メートルの楠の木を伐り、七体の観音菩薩像と刻み、
二十一日間皇子の病気回復を祈願したところ、
不思議なことに 皇子の病気は快方に向かい治ったといわれる。
行基上人は七体の観音菩薩像のうち一体を当寺に、続いて順次、
駿河国安倍郡の六箇所の寺に一体づつ安置した。
この七体の観音菩薩像が安置されているところが「安倍七観音霊場」といわれている。
とされている。ここもあまり人が訪れるこのがなく蝉の声が賑やかなお寺さんです。

2009年08月19日
安倍七観音(法明寺)
安倍七観音の一番元になるのが、この法明寺の大楠木の伝説にある。それは、
美和村足久保の法明寺の境内に楠の大木があったが、夜になると怪しい光を出した。
村の人達は驚き、何か悪い事が起きる前じらせではないかと心配した。
丁度その頃、延暦年間(800~805)奈良の都では、
聖武天皇がご病気で大変ご容態が悪かったので、お側の人々が心配してご看病したが、効き目が無かった。
そこで陰陽博士に占わせたところ「ここよりはるかの東の国に、千年を経た楠の大木があり、
今まさにその樹の寿命が尽きようとしている。
樹は尊い仏体に彫刻されて人々を救いたいと願っている、その望みも叶えられそうもないので、
天子様のお体を悩ませ奉るのである。
その楠を探し出して、尊い僧に仏体を彫刻させて拝んだならば、
お悩みはたちまち治るであろう」と申し上げた。
そこで日本中の国々に命じて千年の齢を経た楠の老樹を尋ねさせた。
そこへ、駿河の国司から、美和の郷にある楠の老樹の事を報せてきた。
それで、天皇は、その頃、徳の優れた、有名な行基という僧侶を駿河国へ下らせた。
みことのりを受けた行基は、遠い旅路をはるばると、夜に日についで道を急ぎ、美和の郷に着き、
早速、村人に案内させて足久保の山中に入り、空一杯に枝を張った楠を見た。
成る程、これこそ千年の齢を終えようとする樹である。この樹こそ仏体を彫刻するにふさわしい樹だ。
とその楠を切り倒させようとした。
村人が楠に丁とばかり斧をあてると、樹の切り口から真っ赤な血がほとばしった。
枝下七十メートルの楠が倒れると村中に巨大な地響きが鳴り渡った。
村人は驚き斧を捨てて真っ青な顔をしてふるえた。
しかし、行基は恐れる村人達をはげまし、なおも丁々と伐らせると、
その切り口から血はコンコンと湧き溢れ、足久保川は樹液で真っ赤に染まったという。
やがて倒された楠は長さ三十三尋(約50メートル)直径十三間(約24メートル)もある大木であった。
行基は身を清め、一刀三礼といって、刃を当てるたびごとに三回拝んで、
七体の観世音菩薩を彫り終えた。
これを駿河国府に近い七つのお寺に安置して、十七日の間、天皇の後脳平癒の祈願を執り行った。
そのためか奈良の都においでの天皇のお悩みもすっかり、ご平癒遊ばされた。
行基は楠の切り株の近くにお堂を建て、その中に観世音菩薩を安置した、というお話。
この七体が安倍七観音の七体という事のようです。
いまの法明寺の観音堂(写真)、静かな普通のお寺という感じです。
美和村足久保の法明寺の境内に楠の大木があったが、夜になると怪しい光を出した。
村の人達は驚き、何か悪い事が起きる前じらせではないかと心配した。
丁度その頃、延暦年間(800~805)奈良の都では、
聖武天皇がご病気で大変ご容態が悪かったので、お側の人々が心配してご看病したが、効き目が無かった。
そこで陰陽博士に占わせたところ「ここよりはるかの東の国に、千年を経た楠の大木があり、
今まさにその樹の寿命が尽きようとしている。
樹は尊い仏体に彫刻されて人々を救いたいと願っている、その望みも叶えられそうもないので、
天子様のお体を悩ませ奉るのである。
その楠を探し出して、尊い僧に仏体を彫刻させて拝んだならば、
お悩みはたちまち治るであろう」と申し上げた。
そこで日本中の国々に命じて千年の齢を経た楠の老樹を尋ねさせた。
そこへ、駿河の国司から、美和の郷にある楠の老樹の事を報せてきた。
それで、天皇は、その頃、徳の優れた、有名な行基という僧侶を駿河国へ下らせた。
みことのりを受けた行基は、遠い旅路をはるばると、夜に日についで道を急ぎ、美和の郷に着き、
早速、村人に案内させて足久保の山中に入り、空一杯に枝を張った楠を見た。
成る程、これこそ千年の齢を終えようとする樹である。この樹こそ仏体を彫刻するにふさわしい樹だ。
とその楠を切り倒させようとした。
村人が楠に丁とばかり斧をあてると、樹の切り口から真っ赤な血がほとばしった。
枝下七十メートルの楠が倒れると村中に巨大な地響きが鳴り渡った。
村人は驚き斧を捨てて真っ青な顔をしてふるえた。
しかし、行基は恐れる村人達をはげまし、なおも丁々と伐らせると、
その切り口から血はコンコンと湧き溢れ、足久保川は樹液で真っ赤に染まったという。
やがて倒された楠は長さ三十三尋(約50メートル)直径十三間(約24メートル)もある大木であった。
行基は身を清め、一刀三礼といって、刃を当てるたびごとに三回拝んで、
七体の観世音菩薩を彫り終えた。
これを駿河国府に近い七つのお寺に安置して、十七日の間、天皇の後脳平癒の祈願を執り行った。
そのためか奈良の都においでの天皇のお悩みもすっかり、ご平癒遊ばされた。
行基は楠の切り株の近くにお堂を建て、その中に観世音菩薩を安置した、というお話。
この七体が安倍七観音の七体という事のようです。
いまの法明寺の観音堂(写真)、静かな普通のお寺という感じです。

2009年08月18日
安倍七観音(霊山寺)
霊山寺は、地元では大内の観音様と親しまれている。
室町時代末期まで史料がないが、開創は行基だと伝えられている。
慶長5年(1600)に元識法印が再興した、とされている。
寺のある山は帆掛山と呼ばれ、観音の 山道は三十三曲がりの急な細い山道で、
それは、観音三十三身の化現を意味し、
途中6基の町石(里程標柱)は六波羅蜜を意味する。観音堂(写真)

ここは、室町時代につくられた仁王門(写真)も有名。

静かな一時を楽しみたい方は一度お参りを。
そうそう、のぼり口には、駐車場とトイレがあり、スキーのストックが杖の必要な人の
ために置いてあります。
室町時代末期まで史料がないが、開創は行基だと伝えられている。
慶長5年(1600)に元識法印が再興した、とされている。
寺のある山は帆掛山と呼ばれ、観音の 山道は三十三曲がりの急な細い山道で、
それは、観音三十三身の化現を意味し、
途中6基の町石(里程標柱)は六波羅蜜を意味する。観音堂(写真)

ここは、室町時代につくられた仁王門(写真)も有名。

静かな一時を楽しみたい方は一度お参りを。
そうそう、のぼり口には、駐車場とトイレがあり、スキーのストックが杖の必要な人の
ために置いてあります。
2009年08月17日
安倍七観音(鉄舟寺)
この鉄舟寺そのものが安倍七観音ではなく、すこし上の久能山山頂に、
久能寺として、1500年前(推古天皇の時代)に開かれたという。
その後、僧行基がつくった千手観音が安置され、久能寺と称された。
その後、僧行基をはじめ多くの名僧が相次いで来たり、
建物も三百三十坊も建てられ非常に隆盛を極めた、が嘉永年間(1225年頃)
山麓からの失火によって類焼し昔の面影はなくなりました。
その時代に栄えた秦氏によって栄えたとされている。
今は、蝉の声大合唱だけで、人気の無い観音堂(写真)
久能寺として、1500年前(推古天皇の時代)に開かれたという。
その後、僧行基がつくった千手観音が安置され、久能寺と称された。
その後、僧行基をはじめ多くの名僧が相次いで来たり、
建物も三百三十坊も建てられ非常に隆盛を極めた、が嘉永年間(1225年頃)
山麓からの失火によって類焼し昔の面影はなくなりました。
その時代に栄えた秦氏によって栄えたとされている。
今は、蝉の声大合唱だけで、人気の無い観音堂(写真)

2009年08月13日
安倍七観音(建穂寺)
本日、所用があって静岡市の羽鳥に行ったので、
建穂寺(たきょうじ)について簡単な解説を載せます。
建穂寺は、白鳳時代(西暦662)に出来たとされ、養老七年(723)行基が再興したと
されています。平安時代には建穂神社の名前があり、神仏混淆の寺であったらしい。
今は建穂寺は無く、建穂神社(写真)があるのみです。
近くに観音堂があり文化財が保存されています。
興味のある方は一度見に行かれたらいいですよ、1300年の歴史が文化財に
凝縮している感じがします。
建穂寺(たきょうじ)について簡単な解説を載せます。
建穂寺は、白鳳時代(西暦662)に出来たとされ、養老七年(723)行基が再興したと
されています。平安時代には建穂神社の名前があり、神仏混淆の寺であったらしい。
今は建穂寺は無く、建穂神社(写真)があるのみです。
近くに観音堂があり文化財が保存されています。
興味のある方は一度見に行かれたらいいですよ、1300年の歴史が文化財に
凝縮している感じがします。

2009年08月06日
安倍七観音2
この安倍七観音は、静岡市近郊では最も古い部類のお寺に入る。
特に、鉄舟寺(久能寺)と建穂寺(たきょうじ)は、7世紀以前からあった様だ。
それぞれお寺を中心に寺町を形成していて、かなり大規模な様子だったらしい。
それで、これらのお寺はすべて山の中腹以上、もしくは海から遠くにある。
(鉄舟寺は低いところにあるが、久能寺のころは山の上。)
それを見ると今平地だった所は、昔は住み辛かったのか。(湿地かなにかで)
それとも、スマトラ島沖地震の様なことが、昔日本で起きて大津波でもあったのか、
そんな事を思いながら、ひがな一日過ごすのも、案外贅沢かのしれない。
そうそう鉄舟寺には、義経の横笛があって音色の鑑賞会もあるらしい・・・
特に、鉄舟寺(久能寺)と建穂寺(たきょうじ)は、7世紀以前からあった様だ。
それぞれお寺を中心に寺町を形成していて、かなり大規模な様子だったらしい。
それで、これらのお寺はすべて山の中腹以上、もしくは海から遠くにある。
(鉄舟寺は低いところにあるが、久能寺のころは山の上。)
それを見ると今平地だった所は、昔は住み辛かったのか。(湿地かなにかで)
それとも、スマトラ島沖地震の様なことが、昔日本で起きて大津波でもあったのか、
そんな事を思いながら、ひがな一日過ごすのも、案外贅沢かのしれない。
そうそう鉄舟寺には、義経の横笛があって音色の鑑賞会もあるらしい・・・
2009年08月05日
安倍七観音
静岡市近郊のローカルな話題で恐縮ですが、
安倍七観音をご存知でしょうか。
歴史は古く、7世紀の時代に行基が開いたとされる。
1、鉄舟寺(久能寺) 静岡市清水村松2188
2、霊山寺 静岡市清水区大内597
3、平澤寺 静岡市駿河区平沢50
4、徳願寺 静岡市駿河区向敷地689
5、法明寺 静岡市足久保奥組 1043
6、増善寺 静岡市葵区慈悲尾302
7、建穂寺 静岡県静岡市葵区建穂271
この中で建穂寺は今、寺は無く建穂神社が建っている。
近くの方は1300年前の歴史を感じに行ってみるのはいかがでしょうか。
安倍七観音をご存知でしょうか。
歴史は古く、7世紀の時代に行基が開いたとされる。
1、鉄舟寺(久能寺) 静岡市清水村松2188
2、霊山寺 静岡市清水区大内597
3、平澤寺 静岡市駿河区平沢50
4、徳願寺 静岡市駿河区向敷地689
5、法明寺 静岡市足久保奥組 1043
6、増善寺 静岡市葵区慈悲尾302
7、建穂寺 静岡県静岡市葵区建穂271
この中で建穂寺は今、寺は無く建穂神社が建っている。
近くの方は1300年前の歴史を感じに行ってみるのはいかがでしょうか。