2022年01月31日

マンボウ

蔓延防止法の適用という事で、マンボウ。
何か、ただの風邪の様な雰囲気だけど、いつのまにやらマンボウだと。
2月20日までの辛抱だとか、
ここは田舎なので見事なくらい飲み屋街が休みになった。
確かに開いていても人が通らないので休むしかないのだろう。
町が暗い、早く明けて欲しいものだ。
蝋梅を見て来た、ささやかな休み。
紅梅の蕾を見つけた、河津桜ももうすぐの感じだ。
また新しい1年が始まる、1年1年が大事に感じるこの頃。
私の様に外から見ていると岸田さんが何を考えているのかわからない。
菅さんでも、もっと発信をしていた。
良い悪いの判断が出来た。
岸田さんは、ただの無能なのか。
リーダーは決断業。
決断出来なければ、リーダー辞めなはれ。
最も辞める事が出来る事こそ、最もリーダーらしい決断だが。
ただぶら下がっているのは、醜いぞ。  


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2022年01月21日

春よ来い

オミクロン株が増えて居る。
弱毒化している様だが、例のカコサイタ、カコサイタとテレビは賑やかだ。
まぁインフルエンザ並みだと思うが、マスク、手洗い、会食などは
控えている。もう自粛生活に慣れてしまった。
ただ個人的な勝手な判断だと、この株は2月の上旬でピークアウトをして
2月の末では、やれやれと言って居るつもりだ。
昨日は大寒、今日も最低気温、色々しんどいのだが、
下がり切れば、後は上がるしかない。
明けない夜は無いのだから。
人類は、きっとそう信じて生きながらえて来たのだろう。
春よ来い、早く来い♫そんな気分の今日この頃。
梅、桃、桜、今年の花は綺麗だろう。  


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2022年01月20日

寅さんから26年

阪神淡路から27年たって思い出すのは、
「男はつらいよ」で渥美清の寅さんが出た最終話が
阪神淡路の震災のお見舞いだった。
今見ても笑顔も少ないし、立っているのも辛そうだけど
本人が望んで、最後の物語になった様だ。
翌年68歳の人生を閉じた。
もっともっと寅さんは見たかったが、いつかは終わるのは
仕方がない。
寅さんのやった「啖呵売(たんかばい)」は、今の人には分からない。
粋な姉ちゃん✕✕✕x✕✕✕、とか見上げたもんだよ屋根屋の✕✕✕✕
とか、今では言葉狩りにあってしまう。
そんな事を笑い飛ばしながら、粋に生きたフーテンの寅こと車寅次郎
そんな人生が渥美清と良くマッチして、
我々の世代や、その前の世代のヒーローだった。
その最後と阪神淡路の震災とシンクロしている様な気がする。
きっと、あちらの世界で震災にあった人達の慰問をやっているのかな
仲間と旅の一座で、そんな事を空想した。
48作全部のDVDがある、今年は見直そうかな。  


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2022年01月17日

阪神淡路の震災から27年

もう27年、まだ27年色々な思いがあるだろうけど、
阪神淡路大震災から4半世紀以上が経った。
今思うと、それ以前の日本とそれ以後の日本のターニングポイントの
様に感じる。
まさか神戸で地震が起きるとは、から始まり、ねじ曲がった高速道路
左翼政権の不手際、善意の市民たちの活動、世界中からの支援
今に繋がる色々な事が起きる事になった事件だ。
多くの犠牲者を出し、親を失った子、子を失った親、心が締め付けられる
そんな事件が多発した。
それを経験した子供達は、もう立派な親になっている事だろう。
厳しい中から立ち上がって来た子供達は強くそして優しい大人になる。
そして、以外と知られていないが、この時に多くの企業が利益抜きの
ボランティアを行った。
コンビニが解放されたり、自販機が無料になったり、
被災企業に売掛金がある企業は、返済不要にしたり
困った時は、お互い様といった日本的な良心が、見えた時でもあった。
日本人の思いやりは、災害が多く、お互いが思いあわねば
生きてこれない社会だったのを実感した。
そんな事の始まりの時の気がする。
犠牲者の方を思い合掌。

  


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2022年01月11日

チューリップの唄

咲いた、咲いたチューリップの花が・・
がチューリップの唄だが、ユーチューバーの間では、
地獄のチューリップの唄があると言う。
カコ、サイタ、カコ、サイタと最多、最多を繰り返し、
市民に武漢熱の恐ろしさを煽り続ける歌が、地獄のチューリップの唄だそうだ。
2年も繰り返せば、飽きそうなものだけれど、
まだ繰り返している。
確かにオミクロンは広がっているが、爆発的に広がった南アメリカや
イギリスも収束の方向の向かって居て、重症化は殆ど無かったという。
官邸の岸田は、ワクチンの3回目を急ぐとか、沖縄県知事はうろたえて居たが、
日本人の様に、防疫が習慣になっている中では、さほど心配はないだろう。
地獄のチューリップの唄は、もう終わりにしたらどうだろう。
そう言えばチューリップで思い出したが、パチンコ屋がどんどん減るらしい。
昔は、開け開けチューリップなどと言いながら、チューリップに中に銀の球が
吸い込まれるのに快感があったが、今度の法律改正でパチンコ屋から
銀の球が無くなるとか、すると完全のテレビゲームになる様だ。
それなら何が可笑しくてパチンコ屋に行くのだろう。
それでは潰れるわな。
いっそ手で打つ昔のパチンコ屋が現れないかなぁと思うが、
釘師が居ない今の時代では無理だろう。
テレビゲームならパソコンで世界を相手にした方が面白い。
パチンコ屋受難の時代。  


Posted by 昔のシステムエンジニア at 10:11Comments(0)日記

2022年01月04日

貨幣経済より米経済

今現在は、貨幣経済で貧富の差は広がりつつある。
なので政府がもう一度金を市中にバラまこうという政策が
真剣に語られている。これは冨が偏る事の弊害を
人類は知っているという事だ。
何時の時代にも貨幣を集める事のみに執念を燃やす人間が居て
其の為に大多数の人が飢えや貧困で苦しんで来た。
それに対して古い日本人は、面白い結論を出して来たのだ。
米経済である、つまり貨幣より米を経済の主流に置いたのだ。
江戸時代の武士・殿様も、その経済力は石高で示されて居て、
その量の米を頂いて生活をしていた。
勿論、後の方では、その米を商人に換金させ貨幣で生活をしていたのだが
元々、米は保存が効くが普通でせいぜい3年という所だ。
つまり多くの米があるからと言っても資産家というべきではない。
米を多くの人に配り、部下を養ってこその殿様という事になる。
何故そうなったか、貨幣経済が発達していなかったという人が居るが
戦国時代以前から大阪などでは貨幣経済は発達していた。
それを徳川幕府が米経済の方向に持ってきたのだ。
貨幣経済の欠点は、それを貯め込む人が出てくる事だ。
勿論、質素倹約は良い事なのだが、市中の貨幣が回らなくなると
経済弱者は飢えや貧困に苦しむ事になる。
それを出さない為にも米を配り、
多くの人に配る事で社会の安定を図ったのだ。
江戸っ子が宵越しの金を持たなくとも生きて行けたのは
米経済に依るところも多かったと思う。
現在は、江戸時代より本当に発達しているのだろうか、
慌てて金をバラまくなら、最初から貨幣に依らない経済を考えられた
江戸時代の日本人の方が賢い気がする。
だから江戸庶民は人情があつかったのではないだろうか。
一人で富むより皆で富む方が良い。
こんな判りやすい正義が何で出来ぬのか。
子供達に説明できない事は止めたいものだ。  


Posted by 昔のシステムエンジニア at 09:18Comments(0)日記

2022年01月03日

米は神の賜物

新年、明けましておめでとう御座います。
本年も宜しくお願い致します。
今回は米(こめ、アメリカでない)をテーマに日本の国が成立して来た事を書きたいと思う。
天皇陛下のおかれては、毎年田植えや刈り取り、
神への捧げなどを行い、米が特別な穀物である気はしていてが、
その理由について余り深く考えた事は無かった。
しかし、最近その根源を知る事となり、思えば思うほど神に賜物と思うように成ってきた。
其の事について記したいと思う。
まず第一に米は、縄文時代から日本にあったという事だ。
昔教わったのは、中国から朝鮮半島を経て日本に2000年ほど前に来たという説だ。
しかし、現実には、DNA解析では、朝鮮半島の米は、近代になって日本から
朝鮮半島の行ったもので、2000年前には影も形も無かった。
つまり日本人が朝鮮半島に持って行ったものである事が解った。
そして、中国と日本の米はDNAでは似ているが、中国が6000年前の水田の跡があり
米もあるので、最古と思って居たが、日本でが7000年以前の水田の跡が見つかり
1万数千年まえに米を炊いた後も見つかった。
すかさず中国が8000年前の水田の跡が見つかったと言ったが、日本の学者が
研究の為に見せて欲しいと申し出ても一切無視して音信不通だとか。
まあ古さは良いが、何の為の米かという事だ。
米は、籾の状態であれば7~8年は、食べる事が出来る。
つまり、不作が続いても、飢える心配が少ないという事だ。
古代に人々の最も重要な心配事は、自分の子や孫、仲間を飢えさせないという事なのだ。
狩猟や採集では、必ず飢えが起きる、
だから飢えとの闘いこそ国家が存在する理由だったのだ。
縄文人は早くからその対策をしていて、1万年以上前から栗と陸稲を育てて来た事が
最近明らかになった。
栗などは、かなり品種改良されていて、縄文人の住居は栗畑の中にあったという。
それでも飢えや飢饉はあった様だ。
そこに水田を広めた人がいた。
それは、水田で作れば、より多くの米が手に入り、
一気に飢えや飢饉から多くの人を守れるという事だ。
ただ水田を作るには高度な灌漑技術、土木技術を必要とする。
稲作と同時に其の技術を指導する人間が現れたのだ。
その方は、人々を説得し励まし、陣頭指揮に立って大水田地帯を作った。
高度な灌漑技術、土木技術を駆使して大阪平野に、当時世界最大の
大水田地帯を作り、世界最高の豊かな国を作った。
土木、灌漑工事で出た土は、一か所に集められ土盛りをした。
前方後円形は、土が崩れない理想の形であった。
その国を作ったリーダーが亡くなった時、
このリーダーを神と呼び、その功績を称えて、
その土盛りのモニュメントを墓にしたのだ。
それこそが仁徳天皇陵古墳と呼ばれている。
米は、他の穀物とたった一つ違う事がある。
それは、米は永遠に作り続けられるものである事だ。
麦であっても10年に1度位土地を休ませなければならない。
しかし、米は、特に水稲は、その老廃物も含め水に流すという。
だから、永遠の作り続ける事が出来る。
当時の民衆は、飢えから庶民を救い、惜しみなく技術を教え
人々の安寧を一身に祈った姿に神を見て、
その子々孫々に神からの賜物に感謝し続けたのだ。
やはり米は大事ぞ。
惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはえませ)
今年も良い年になります様に。  


Posted by 昔のシステムエンジニア at 12:33Comments(0)日記