2013年09月23日

神仏習合

先日、高野山の出かけたのだが、そこで感じたのは、寺というより神社という趣だった。
私個人の感想だが、寺は人が居なくても賑やかだ。
ついさっきまで、人息で溢れていた気配が残っている。
神社は、静かだ。しかし、神様の懐に居る様に穏やかだ。
高野山は、そういう意味では神社の様だ。
そういえば静岡県にも似たところがある。
春埜山大光寺だ。樹齢1300年の春埜杉の下に来ると、
エネルギーがもらえる感じがする。
双方とも1200年の間修行の地としての歴史がある。
神仏習合が当たり前の時代のものだ。
それが明治維新で廃仏毀釈がおきて、寺は葬式仏教のみが仕事となってしまった。
その昔の寺は、教育の場であり、役所であり、病院であり、集会場であり、
そして天災などの救護所であった。
しかし、時の権力の都合で葬式でのみ寺としてしまったのだ。
元々坊さんは、神仏の力を借りて、人々平和と安全に導く集団であった。
それが無くなった事。これが、
実は新興宗教を助長する源になったのではないだろうか。
昔の日本は国全体は天皇が、心配し祈っていた。
田舎では村の中で寺が鎮守の神さまと一緒に村の世話を焼いていた。
そうする事で、皆の安寧が図られていたはずだ。
しかし、明治に寺を、戦後天皇を軽んじた為に、国や村の軸がおかしくなった。
寺と神社を復活させ、天皇を国の元首として位置付ける。
これが、日本復活の本当の基本だと思うのだが。
  


Posted by 昔のシステムエンジニア at 15:07Comments(0)神社