2013年03月04日
去りゆく人
先週末に随分お世話になった老経営者が亡くなった。
経営者という表現は本人にとって嬉しいかは解らないが、見事な勉強家だった。
大正生まれで、陸軍幼年学校、陸軍士官学校に行き、戦地で終戦を迎えた。
多くの戦友達は、戦場で亡くなったり、自決したのだが、
200人の部下の命を救うため一緒の帰還した。
戦後、公職に就けなかったので、事業を起こし、成功者と呼ばれた。
本人は自分は無骨なので、軍人でなかったら警官ぐらいしかなるものは無いと言っていた。
多くの試練に耐えた戦後だっただろう。
91歳なので、大往生という事だろう。
葬儀は親族のみの密葬という事で参加できなかった。
最後の顔を拝見できなかった事は心残りだが、むしろその方が良いとも思い直した。
色々教えて頂いた20年あまりだったが、それを思う時間が大切な時間だったと思う。
この方に教わった事は、多くの情報がある中、真実を見抜く情報の整理と、
考え方の筋道を教わったと思う。
私は、色々教わった人を先生と呼んでいるが、この方だけは師匠と呼んでいる。
常に相手の目の高さを知って合わせて教えてくれるからで、ほぼマンツーマンだ。
この方は普通の人を教える教育者ではない。
自分が帝国陸軍に受けたエリート教育を後の世代に残す事を使命と考えていたのだろう。
だから少数精鋭だった。私がそのエリートの名にふさわしいかはわからないが、
その思いは受け継ぎたいと思いついた。
今は、あちらの世界で戦友と話しているのだろうか、きっと忙しげに動いているような気がする。
本当にお疲れ様でした。合掌。
経営者という表現は本人にとって嬉しいかは解らないが、見事な勉強家だった。
大正生まれで、陸軍幼年学校、陸軍士官学校に行き、戦地で終戦を迎えた。
多くの戦友達は、戦場で亡くなったり、自決したのだが、
200人の部下の命を救うため一緒の帰還した。
戦後、公職に就けなかったので、事業を起こし、成功者と呼ばれた。
本人は自分は無骨なので、軍人でなかったら警官ぐらいしかなるものは無いと言っていた。
多くの試練に耐えた戦後だっただろう。
91歳なので、大往生という事だろう。
葬儀は親族のみの密葬という事で参加できなかった。
最後の顔を拝見できなかった事は心残りだが、むしろその方が良いとも思い直した。
色々教えて頂いた20年あまりだったが、それを思う時間が大切な時間だったと思う。
この方に教わった事は、多くの情報がある中、真実を見抜く情報の整理と、
考え方の筋道を教わったと思う。
私は、色々教わった人を先生と呼んでいるが、この方だけは師匠と呼んでいる。
常に相手の目の高さを知って合わせて教えてくれるからで、ほぼマンツーマンだ。
この方は普通の人を教える教育者ではない。
自分が帝国陸軍に受けたエリート教育を後の世代に残す事を使命と考えていたのだろう。
だから少数精鋭だった。私がそのエリートの名にふさわしいかはわからないが、
その思いは受け継ぎたいと思いついた。
今は、あちらの世界で戦友と話しているのだろうか、きっと忙しげに動いているような気がする。
本当にお疲れ様でした。合掌。